「このことは、だれにも知らせてはいけない」マタイ福音書9:30
「聖書に隠された『引き寄せの法則』」シリーズ、
今回は「マタイによる福音書」第9章30節のご紹介です。
イエスが歩いていると、
前から二人の盲人がやってきました。
どうやらこの二人は、
イエスに目を癒してもらおうとしているようです。
イエスは二人の覚悟を聞きます。
「私にできると信じるのか?」
ここでの「私」が指すのはイエス自身というより、
それぞれの盲人自身にとっての「私」のことです。
つまり、「私にできると信じるのか?」とは、
「自分が治ると信じるのか?」ということです。
まず、自分を信じること
実は、イエスの行った奇跡は、
イエス(キリスト性)や聖霊の力を必要としている以上に、
本人(私=神)の意志と信念に拠るところが大きいのです。
腕利きのお医者さんが「病気を治してあげるよ」と言っても、
本人が本気で治りたいと思わなければ、病気は治りません。
よく言われるように、
「医師は手助けするだけ、病気を治すのは患者自身」
だからです。
(あなたが先生業をされていたり、
友人に真摯にアドバイスをされたことがあれば、
この言葉の意味がよく分かるかも知れませんね)
ときにはエゴの「誤った損得勘定」によって、
病気になるケースもあります。
「家族に愛されたい」という承認欲求を満たすために、
病気になって家族の気を引くというケースもあり得ます。
僕は自分を傷つけることで他者の気を引くことを、
「自分を人質にとる」と言っています。
エゴが「真の損得勘定=法則」を理解していないと、
自分を人質にとるのが得だと誤解することもあり、
そういう人は治してあげるのが難しいのです。
意志と信念がブレていないだろうか?
さてイエスは、二人の盲人の潜在能力を引き出し、
”彼らの意志と信念に従い”目を癒しました。
そこで、こんな忠告をしています。
二人は目が見えるようになった。
イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」
と彼らに厳しくお命じになった。
マタイによる福音書 第9章30節 新共同訳(c)日本聖書協会
なぜ、誰にも知らせてはいけないのか?
それは、彼らのエゴの欲求を満たさないためです。
本気で”自分(私)のためだけ”に願望を叶えたなら、
わざわざ他人に伝える必要はありません。
なぜなら、他人に自慢するために
実現させたわけではないからです。
しかし、この二人の盲人は、
この「奇跡」をその地方一帯に言い広めます。
なぜ彼らは、わざわざ言い広めたのでしょうか?
理由はいくつか考えられます。
たとえば、パッと浮かぶだけでも、、、
- 他人に治った正当性を認めてもらいたい(承認欲求)
- 他人に「すごいね」と言われたい(承認欲求)
- 「奇跡」とは珍しいものだと信じている(自己不信)
たとえば、ボールペンを買ったとしましょう。
それを、わざわざ友達に伝えますか?
もし、珍しいボールペンだったら、
友達に伝えるかも知れません。
もし、その買い物の正当性を認めて欲しいのなら、
友達に褒めてもらおうとするかも知れません。
でも、そのボールペンが必ず手に入ること(信念)と、
心の底から「それが欲しい!」こと(意志)を確信していたら、、、
ボールペンが手に入った後も、
別にわざわざ自分から友達に報告はしませんよね。
ボールペンが手に入って当然だということ(信念)も、
買い物の正当性(意志)も”理解していた”からです。
誰にも話してはいけない
僕らが願望が実現したことを誰かに教えなくても、
ボールペンを持っていることは見れば分かります。
何か気になれば、その人から聞いてくるでしょう。
「そのボールペン、珍しいやつだよね?」と。
そのとき、教えてあげればいいわけです。
わざわざ、自分から名乗り出るということは、
どこか意志と信念がブレていたに違いありません。
- 本当にこれが欲しいのか?
- これは自分に相応しいか?
- 手に入って当然と思っているか?
(引き寄せの法則を信じているか?)
願望を実現化させる前に、自分を見つめなおして、
この辺りをもう一度点検してみるといいでしょう。
*
もちろん、胸に秘めていた願いが叶ったら、
それを誰かに伝えたくなる気持ちは分かります。
でも、そこはグッと堪えましょう。
そして、自分に言い聞かせるのです。
「これは確かに『私』に必要なものだ。
そして『私』には、これを持つ資格がある。
そのためになら、どんな奇跡だって起こる」
なお、聖書には後日談が載っていませんが、
あの二人の盲人の信念はブレブレだったため、
また次第に視力を失っていったのかも知れません、、、
ではでは。
まついゆうへい
