「あなたが信じたとおりになるように」マタイ福音書8:13
「聖書に隠された『引き寄せの法則』」シリーズ、
今回は「マタイによる福音書」第8章13節のご紹介です。
前回*、イエスのもとを訪れた百人隊長は、
「イエスの一言があれば部下は癒される」と言いました。
*参考記事:キリスト性とエゴと肉体の関係
そこで、イエスが百人隊長に声を掛けます。
そして、百人隊長に言われた。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」
ちょうどそのとき、僕(しもべ)の病気はいやされた。
マタイによる福音書 第8章13節 新共同訳(c)日本聖書協会
この言葉を、”病気にかかった部下本人”ではなく、
百人隊長が聞いただけで部下の病気は癒されました。
それは、なぜだったのでしょうか?
エゴがすべての鍵を握っている
なぜ、百人隊長が納得しただけで、
その場に居合わせなかった部下が治ったのかと言うと、
キリスト性とエゴと肉体の主従関係で説明できます。
意識レベルは5つありました。
- レベル5:キリスト性
- レベル4:集合的無意識
- レベル3:魂
- レベル2:エゴ(心)
- レベル1:肉体(肉体意識)
キリスト性がもし「左へ行け」と言ったら、
それ以下の存在は従わざるを得ません。
たとえるとしたらキリスト性は「法則」です。
法則に従わなければ、
集合的無意識も魂も存在できません。
しかしながら、唯一エゴだけは、
「法則」に(逆らえる範囲で)逆らうことがあります。
エゴの(ある意味)すごいところは、
「自分は神や法則をも超える逸材だ」
と思い込める傲慢さでしょう。
でも、エゴの象徴・サタンがイエスを誘惑したところで、
イエスがまったく意に介さなかったように、
エゴが何を主張したところで法則は変わりません。
エゴが傲慢さを手放さずに法則に抵抗すればするほど、
まるで川を逆流するかのように消耗も激しくなり、
それが周りの現実や肉体に投影されてゆきます。
エゴは「自分が世界の中心だ」と思えるからいいとしても、
部下である肉体にしたら、たまったものではありません。
魂と肉体の中間管理職であるエゴが混乱していると、
肉体が有能でも現場(物理界)が混乱するからです。
エゴは肉体に執着しないほうがいい
元来、魂が宿っていなくても肉体は完璧に働きます。
そこに魂が、地上の制限された経験をするために、
仮の宿として、肉体を間借りしている状態です。
肉体に魂が宿ると、
魂と肉体の仲介者・エゴが生まれます。
エゴは自由意志を使って、
法則を守ることも破ることもできます。
エゴが法則を守ったときには幸福を、
法則に逆らったときは苦痛を感じます。
さて、百人隊長は、魂と肉体の中間管理職である
エゴを象徴していました。
しかし、すでにここでの百人隊長は信仰心が篤く、
イエス(法則)に従う重要性を知っていたようです。
この百人隊長(エゴ)は、
イエス(法則)に従うことを善しとしたため、
部下(肉体)が潜在能力を引き出せたました。
つまり、エゴの干渉がなくなった肉体が、
自然治癒力をいかんなく発揮できたので、
その場にいない部下の病気でも完治したのです。
どうすればエゴをコントロールできるのか?
魂と肉体はすでに完璧なので、
もし、望む現実を引き寄せられないのなら、
エゴが何か”誤解”をしているのが原因です。
その”誤解”とは、
「法則に従わなくても平気だろう」
という誤った認識です。
ある意味、
作用反作用の法則だけでも知っていれば、
かなり望みの現実化の役に立つはずです。
与えたものがそっくり返ってくるからです。
人生の黄金率として知られる、
「自分がして欲しいことを人にしろ」
「自分がされたくないことは人にするな」
この二点を守れば、不幸になりようがありません。
でも、エゴは耳元で甘い言葉をささやきます。
「一回くらい盗んでも平気だろ?」
「どうせ誰も見てないんだぜ?」
「自分が不幸なのに他人に施せるかっての!」
エゴはなぜ、法則に背くことをささやくのか?
それは、法則を知らないか、法則を知っていても、
背いたところで損しないと信じているからです。
ただ単に、エゴは”誤解”しているだけなのです。
しかし、法則を知り、法則を検証していくと、
どうやら法則に従った方が本当は得なのだと、
エゴも少しずつ納得していくようになります。
そして遂には、あの百人隊長(エゴ)のように、
イエス(法則)に従順に従うようになるのです。
そうしてようやく、
肉体や現実(=物理界)が正されていくようになります。
*
僕らが無理なくエゴを支配するには、
グノーシス(認識の是正)が必要です。
エゴに「正しい損得勘定」を教えてあげるのです。
法則を知り、法則に従って生きられるようになると、
生活はシンプルに奥深いものになっていくんだよ、と。
僕らみんな(魂-エゴ-肉体)にとって、
もっとも幸福な結果を招くんだよ、と。
イエスが言うように、
物事はすべて「信じたとおりになる」のです。
それでは、また。
まついゆうへい
